ていぱん備忘録

Twitter:@teihen__panda

大学生活ふりかえり(人生編)

 お世話になってます、底です。
 社会人になってはや2週間、もうすでに心が折れそうです。
 モラトリアムが他の人より長かった分、環境の変化への耐性が無いんだ…
 自分は本当にこのままやっていけるのだろうかと自問自答しつつ、今回は大学生活に繋がる底さんの人生…パンダ生?を振り返っていきます。

 遡ることおよそ10年、高校生だった底さんはとある自称進学校に在籍していました。
 山の中の寮と校舎を行ったり来たりするだけの、勉強する狸みたいな生活でした。
 そんなこんなで高3の受験シーズン、特にやりたいこともなかったので、周りの人間さん達に勧められるまま医学部を受験し、ラッキーなことに現役で受かっちゃいました。

 実はこの時「学校推薦」という高校から大学への推薦枠に応募してたんですが、枠2人に対して応募者3人で僕だけ推薦してもらえませんでした。
 この時の悔しさは今でも覚えています。
 しかも推薦枠の2人は推薦も一般入試も落ちてました。
 じゃあ僕に譲れよ!!!!ゔぉ!!!!

 とまあ周囲の人間さん達を見返して気分上々だった自分は意気揚々と大学に進学し…

 初年度で留年しました。

 まあ中高一貫でほぼ毎日勉強するだけの生活からの解放感とか、受験勉強とは全く毛色の違う医学の勉強に興味が湧かなかったとか色々理由はあります。
 でも普通の人は留年とかしないらしいぞ。
 これを読んでる留年生たち、がんばろうな。
 僕も頑張ったしさ。

 ほんでまあ留年の報告をした時、親は普通に泣いていました。
 ここまで良い感じに子育てが進んでた分、挫折とか悔しさとかがあったんでしょうね。

 ただ親に泣かれたことで僕の中に芽生えたものがあります。
 それは「反抗期の楽しさ」でした。
 最悪かも〜。

 思い返すと高校までの底さんって明確な反抗期みたいなのが無かったんですよね。
 かなり甘やかされて育ってきてたし、言われたこともそこそこできたので、そういう機会が無かったというか。

 でも今思うと、中学生とか高校生の頃にもっとしっかり親に反抗する時間があったほうが良かったと思います。
 人格形成に重要な時期とは世間でも言われていますが、個人的には「自分の意思で何かを決めること」や「自分で人間関係を築くこと」「ストレスへの耐性」を覚える大事な時間なんだと思います。
 これを読んでるかもしれない少年少女達、たまには親の言うことに逆らってみような。
 じゃないと最終的に底さんみたいな人間に無関心な優柔不断流されパンダになっちゃうぞ。

 ただ留年した時もずっと鬱屈としてたわけではなく。
 弊学は留年しても落とした単位だけ拾い直しなので、暇な時間がめちゃくちゃ増えるのが良かったです。いや良くはないんですが。
 でも大学って我が世の春みたいなところあるし、遊べる時間とか趣味に費やせる時間ができたら目一杯遊んだ方がいいのかなーとも思います。個人的にね。

 そんな感じで悪いこと覚えちゃった底さんは進級留年を一進一退で繰り返し、ぜえはあ言いながらなんとか、他の人より数年余計な時間を掛けて大学を卒業しました。

 思い返すと色んなことがありました。
 私生活は部活とか趣味とか変な先輩後輩や友人やら色々あって楽しかったですが、勉強や実習は本当に辛かった…
 向いてないなあって何度も思いましたけど、結局底さんは道を変えることはできませんでした。

 だからこそ自分で違う道を選んで進み生きているフォロワーのことを心から尊敬していますし、ほんの少し妬んでもいます。

 長々と書きましたが、結局何が言いたいかとかいうと「自分の好きなことを見つけよう」ってことですね。
 好きなことなら多少しんどくてもがんばれます。多分ね。

 最終的に浅ーい人生観を語ってしまいましたが、これを読んでる人たちが、その人の「好き」を見つけ、貫き通せると良いなと願っています。

 長文駄文失礼しました、それでは。


大学生活ふりかえり(Twitter編)

 お世話になってます、底です。
 長文駄文で読みにくいかと思いますので先に謝っておきます、すみません。

 最近ではていぱんとかぱんだって呼ばれることの方が多いですが、Twitterを始めた頃は底というアカウント名でした。
 アイコンがたれぱんだの底辺医学生で底辺ぱんだ、頭一文字とって底って感じです。
 ちなみに今のていぱんってアカウント名は底辺ぱんだの略称だったりします。

 そんな自虐を込めたアカウントを多分9年前か10年前に始めました。
 入学して即留年したので、そのストレスの捌け口にしたかったんですよね。
 とは言っても別に誹謗中傷とかしてたわけではなく、今のアカウントと同じようにネタツイしたり留年替え歌投稿したりしてました。
 変わんねーなマジで。
 その頃からのフォロワーとアカウントが変わった今でも繋がっていられるのは、本当に幸せなインターネットライフだと我ながら思います。

 大学生活約10年、ほぼ毎日Twitterをしていました。
 実生活では辛いことの方が多くて。
 元々コミュニケーションが得意な方では無いので友人も少なく、留年して浮いた存在になり、常に孤独を感じていました。
 それでもTwitterを開けばいつも誰かがいて、孤独を紛らわせてくれました。

 浪人生、社会人、僕と同じように苦しんでる留年生、深夜になぜか起きてる人たち。
 苦しんでいるのが自分だけじゃないと思っても別に自分の環境が変わるわけじゃないですが、なんだか救われた気がしました。

 漫画家やVTuberといった、夢に向かって頑張っている人や人生を全力で楽しもうとしている人たち。
 彼らの活動に生きる元気をもらいました。
 その活動を追う中で生まれた縁もありました。
 希死念慮や鬱に苛まれた日も、おかげでどうにか乗り越えることができました。

 アカウントが消えたり更新が止まってしまった人たち。
 もう話しかけることは出来ないけれど、自分がTwitterを楽しいと言う理由として欠かすことはできません。
 どこかで幸せに生きていることを願います。

 入学して約10年、やっと卒業が決まりました。
 国試にも受かり、4月からは社会人としての生活が始まります。
 長い大学生活を乗り切り、新しい門出を迎えられたのは、Twitterで関わった全て人たちのおかげと言って全く過言ではありません。
 本当に、ありがとうございます。

 最後に。
 更新頻度は下がるかもしれませんが、多分サ終までTwitterにいると思うので、これからも絡んでくれると嬉しいです。
 それではまたTwitterで。

 

新年あけましておめでとうございます

 明けましておめでとうございます。
 昨年は長い長い学生生活の終わりを良い形で決めることができました、やったね。
 応援してくださった皆様、卒試合格ツイートにおめでとうと言ってくれた皆様のおかげです。

 本当にありがとうございます。
 今年は118回医師国家試験があります。
 研修医になれるか真・無職が爆誕するかはわかりませんが、残り一月、心のどこかで応援していて下さると嬉しいです。

 それでは、本年もどうぞよろしくお願いします。

 

神楽桃架空思い出配信②

「神楽桃との最後の思い出。」配信用に書いた、シチュボ?台本です。

 長いしレギュレーションに沿ってるのかもわからんな、フリースタイル部門での参加ということで

 

 あれは私が小学生になる前の頃だから、もう20年近く前ですかね。
 あの人に出会って、そして別れたのは。

 私は、都会の人には想像もつかないくらい山奥の村で育ったんです。
 この村で一番高い山の中腹に、古びた神社がありました。
 鳥居も社もボロボロで、なんの神様を祀ってるのかも良くわからなかったんですが、村の老人たちは「カグラ様」と呼んで崇めていました。
 神楽って神様に奉納する舞のことなんですよ。
 それが神様の名前ってなんか変だと思いません?
 まぁあの頃の私はそんなこと知りませんでしたし、そんな神様がいるんだなあとぼんやり思ってました。

 ある日、私がすごい高熱を出したことがあったんです。
 おり悪くその日は大雨で、さっきも言ったようにかなり山奥の村でしたから、麓の診療所に行くのも難しくて。
 そうしたら祖父が
「カグラ様にお願いばしてくっけん待っとれ」
 と言って神社に向かったんです。
 大雨の中、山に向かう祖父を家族みんなが止めたんですが、制止の声も聞かずに行ってしまったそうです。
 その日の晩でした。
 熱で朦朧とする私のそばに巫女服を着た綺麗な女の人が現れたんです。
 その人は
「これが最後かな」
 と言って微笑みながら、私の頭を撫でてくれました。
 その後私は気を失うように眠りについたんですが、翌朝目覚めると熱はすっかり引き、体調もすごく良くなっていました。
 結局祖父も無事に帰ってこれて、家族みんなでカグラ様のおかげだって喜んでいたのを覚えています。

 大雨が止んでしばらくした後、お礼参りということで私は祖父に連れられて神社へと向かいました。
 今にも崩れそうな鳥居を抜け社に参拝した後、本殿の方にもお参りに行くぞ、と祖父に言われました。
 その時はじめて知ったのですが、山の頂上付近に御本殿があったそうなんです。
 急な山道を登り、途中から祖父に背負われながらたどり着いたそこにあったのは

 燃え落ちた蔵、でした。
 祖父は驚いたような顔をした後、涙をボロボロと流しながら、今まで本当にありがとうございました、と言ったんです。
 私は訳もわからず、ですが大切な何かが失くなってしまったことを感じとりました。
 
 長いこと手を合わせて感謝の気持ちを告げた後、祖父におぶわれて山を下りました。
 背負った私に向けて祖父が話してくれたのですが、カグラ様というのは、悪いものを仕舞ってくださる神様だったんだそうです。
 きっと、あのヒトは仕舞い込み過ぎてしまったんでしょうね。

 そうそう、カグラ様の名前ですが、漢字で書くと「禍いを仕舞う蔵」で「禍蔵」様なんだとか。
 字面は恐ろしいですけど、とっても優しい神様でした。
 最後の力で私を助けてくれた方ですから。
 感謝ですか?もちろんしていますよ。
 だからこそ、こうやって神社を綺麗に建て直したりしているわけですから。
 ただ、御本殿は蔵じゃなくて普通の神社にしようと思っています。
 だって、悪いものを背負い込ませるだけ背負い込ませるなんて気が引けるじゃないですか。
 …そんなに笑うような話でしたか?
 まぁそんなわけなので、神社が新しくなったら、またぜひ参拝に来てくださいね、綺麗なお姉さん。

 

 これで伝えたいことはそう!

「何事も背負い込みすぎるな」

 ということですね!

神楽桃架空思い出配信①

「神楽桃との最後の思い出。」配信用に書いたメッセージ型台本です。

 これはレギュレーション違反なのでは…?ボブ訝

 

「もう……もうええわぁ!」
 俺とアンタが漫才コンビを解散した日、最後の舞台での締めの挨拶、未だに覚えてるよ
 いつも通り2mのハリセンを振りかぶったアンタは、俺の顔面を叩くのを一瞬ためらってたよな
 アンタのことだから、最後だし俺が気絶するくらいの勢いで叩くのかと思ってたんだ
 アンタ、あのハリセンで締めるの、嫌がってたんだってな
 解散した後に知ったよ
 アンタと解散した後も何人かとコンビを組んだけど、どいつもしっくり来なかった
 ハリセンの勢いが弱かったり、そもそも2mのハリセンを持てなかったりでさ……
 解散した日に言われたアンタの言葉は正しかったみたいだ
「2mのハリセンで顔面をフルスイングして締めるのは頭がおかしい」ってやつ……
 でもな、俺はあのハリセン芸に可能性を感じてたんだ
 Twitterでいいねが500個くらい来てプチバズった時にさ……俺たち売れる!って思ったんだ
 リツイートは40件くらいだったけど
 なぁ神楽さん、いや、あえて昔の芸名で呼ばせてもらう
 マシュマロホイップ明美ちゃん!俺ともう一回、コンビを組んでくれないか!
 そして、また2mのハリセンで俺の顔面をフルスイングしてくれ
 連絡、待ってるぜ

鰻丸吞崎 魚魚魚太郎より

橋の下

こっちは締切に間に合った方

 

 これは僕が合体メカだった頃の話です。

 その年の僕は大学に受かり、長年の受験勉強から解放されて精神的に浮かれていました。
 そのせいか、今思うとかなり突飛な行動をよくしていたんです。
 片道3時間掛けて港まで歩いて行ったり、夜の公園で無言で一人踊り狂ったり。
 橋の下で寝るのもそうした行動の一部でした。
 僕が通う大学の近くには大きな川があり、川沿いの土手は2段で上の段は舗装のない砂利道、下の段は草が生い茂っていました。
 そんな川の橋の下、砂利道の方で昼寝するとめちゃくちゃ気持ちが良かったんです。
 川沿いですから春風も心地よくて。
 で、ある日いつものようにそこで昼寝していると、急に息苦しくなって目が覚めました。
 慌てて辺りを見渡すもそこには誰もおらず、相変わらずの砂利道でした。
 ただ、普段は涼しいくらいの風が酷く冷たく感じたんです。
 それもそのはずで、僕は全身が水浸しでびしょびしょになっていました。
 さすがに怖くなって家に帰ったんですが
 その日は快晴で、土手の下の段に落ちたわけでもなく、周りに人もおらず…
 じゃああの水は、河底のヘドロのような臭いの水はどこから来たのか?
 もしあのまま寝続けたらどうなったのか?
 
 それ以降もたまにその橋の下には行きます。
 相変わらず春風は気持ちよく、座り込むと段々眠気が誘われてウトウトしてしまいます。
 そうしていると、あの臭いが漂うんです。
 ヘドロのような、鼻につく河底の臭いが。

地下

 これは私がぐりとぐら幻の3人目だった頃の話です。

 医療系学生である私は大学病院で2年間ほど実習をしていたのですが、その日は初めて病理解剖を見学することになっていました。
 学生の身ですから、遅刻はならんとかなり前もって解剖室のある病院の地下に向かったのですが、初めて踏み入れる場所なのもあったせいでしょう、全く解剖室に辿り着けませんでした。
 地下階は何度曲がっても同じような景色ばかりで、来た道もよくわからなくなってゆき、地下特有の重苦しい空気にだんだんと薄寒さを覚え始めた頃、ある扉の前に出ました。
 そこには「霊安室」と書かれていました。
 目的の部屋は解剖室ですから霊安室に用は無いですし、若干の恐怖を感じた私はすぐに背を向けて解剖室を探しに来た道を戻りました。
 そうして解剖室を探して地下を彷徨っていると、私は見覚えのある扉の前に来ました。
 霊安室の扉でした。
 すぐさま踵を返し、とにかくここを離れて解剖室への道を人に聞こうと地上に戻る階段を探しに歩き出しました。
 そうして私は再びその扉の前に出ました。
 霊安室の扉の前に。
 怖くなった私は急いで廊下を戻りました。
 とにかくここから離れようと思ったのです。
 そうして歩いていると、解剖を担当される先生と出会えました。
 その先生曰く、解剖室への廊下は扉があって鍵が閉まっており、学生では開けられない為迷ってしまったのだろうということでした。
 歩けど歩けど解剖室に辿り着かないわけです。
 私は安堵しました。
 これは良い笑い話のネタが手に入ったと思った私は先生に言いました。
 何度曲がって進んでも霊安室に着くからめちゃくちゃ怖かったんですよ、と。
 先生は笑っておらず、こうおっしゃられました。
 この地下階はL字構造だから、何度も曲がるなんてこと無いはずだけど、と。
 私は一体、どこを彷徨っていたのでしょうか…